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師匠の言葉は、物理で読むと分かった――弓の返しと張りのある音、右手の技術に根拠はあるか

このブログはAI開発の記事が中心ですが、今回も寄り道です。筆者はアマチュアのチェロ弾きで、前回の「アンサンブルの音程は、誰がどう決めるのか」に続き、専門外の読み物をAIに下書きさせ、出典の確認と第三者レビューを経て仕上げました。

チェロを習っていた頃、師匠に言われて意味の分からなかった言葉が二つあります。「ボウイングは八の字だ」と、「指弓なんか練習するな、あれは勝手にできるものだ」です。指弓とは、弓を返すときに指の屈伸で弓の動きをつなぐ技術のことです。それを練習するなと言われても、当時は何をどうすればいいのか分かりませんでした。

分からないまま、言葉だけは覚えていました。何年も経ってから、弓が弦を鳴らす仕組みを物理の言葉で考え直し、師匠の言葉をそこに当てはめて仮説を立てて試したところ、当たりました。弓先の返しは、動きを円にしながら一瞬だけ圧力を抜くと切れなくなった。弓元の返しは、手先の慣性に任せると、圧力が抜ける瞬間が勝手にできてつながった。弓全体で張りのある音を出すには、弓を弦に押しつける力を一定の範囲に保つように、前腕の回転を加減すればよかった。判定は自分の感覚です。長いフレーズが途切れずにつながり、昔より自由に歌えるようになりました。外れた仮説は数えきれず、覚えていないほどです。覚えているのは当たったものだけです。

本稿で書きたいのは、この経験から見えてきたことです。右手の技術には物理の要請があります。ただし、身体がその要請をどう満たすかは一つに決まりません。そして、師匠の言葉のような感覚の言葉は、物理をそのまま写してはいないのです。

1. 弓が弦を鳴らす条件

弓で弦を鳴らすとき、奏者が動かせるもののうち主なものは三つです。弓の速さ、弓を弦に押しつける力(本稿では「圧力」と呼びます)、そして弓の毛が弦に触れる位置(「接点」。駒に近いか、指板に近いか)です。この三つの組み合わせで、弦が規則正しく振動するかどうかが決まります。

1973年にシェレングという研究者が、接点の位置を横軸、圧力を縦軸に取った図を示しました。弦がきちんと鳴るのは、この図の中のくさび形の範囲に限られます。圧力が上限を超えると、弦の振動が乱れて音が潰れる。下限を下回ると、弦が弓に対して余計に滑り、かすれた音になる。接点が駒に近いほど、鳴る範囲は上下とも高い圧力の側に移り、しかも狭くなります[1]。

横軸に接点の位置(左が駒寄り、右が指板寄り)、縦軸に弓の圧力を取った模式図。上限と下限の線に挟まれたくさび形の領域に「鳴る範囲」とあり、上限より上は「潰れる」、下限より下は「かすれる」と書かれている。上限の線は二本描かれ、速い弓の線と、その下に破線で遅い弓の線があり、矢印とともに「弓が遅いほど上限が下がる。返しの前後の遅い瞬間は、鳴る範囲が上から狭まる(筆者の読み)」と注記がある。下限の線は一本で「下限は遅い弓でもほぼ変わらない」とある。右上に、シェレングの図をもとにした模式図で軸は対数、数値は省略、と注記がある。
図1 弓が弦を鳴らす範囲(シェレングの図をもとにした模式図)。圧力には上限と下限があり、上限は弓が遅いほど下がる。返しの前後で弓が遅くなる瞬間には、鳴る範囲が上から狭まる、というのが筆者の読みです。

この図で大事なのは、上限と下限が弓の速さでどう動くかです。シェレングの理論では、上限も下限も弓の速さに比例して上下するはずでした。ところが2007年に弦楽器音響の研究者ら(ストックホルムのKTHとノルウェー音楽アカデミー)が、弓を動かす機械でヴァイオリンの弦を使って測ったところ、上限は確かに弓の速さにほぼ比例したものの、下限は毎秒5〜20cmという遅い速度域ではほとんど変わりませんでした[1]。

つまり、弓が遅くなると、鳴る範囲は上から狭まります。

2. 返しの瞬間に、何が起きているか

ここから先は、二つの研究を筆者がつないで読んだものです。

弓を返すとき、弓の速さは一度ゼロを通ります。速さがゼロの瞬間そのものは弦を動かしていないので、図1のような定常状態の図では扱えません。筆者が見ているのは、その前後で弓が遅くなる短い時間です。図1で言えば、上限の線が下がり、鳴る範囲が上から狭まる。同じ圧力を保ったままだと、速さが落ちるにつれて圧力が上限を超え、「潰れる」側に入ります。返しで音が濁ったり詰まったりする原因の一つは、ここにあるのだろうと筆者は読んでいます。なお「比例」と言っても、極端に遅い速度(毎秒5cm)では単純な比例から外れることも、同じ実験で報告されています[1]。速さがゼロの瞬間そのものを定常状態の図では扱えないのは、先に書いたとおりです。

もう一つ、返した直後は、新しい弓が弦を動かし始める瞬間です。音の出だし(アタック)を調べたゲトラーの解析によれば、アタックでは弓の圧力と加速の釣り合いが要ります。加速に対して圧力が多すぎると弦がすぐに規則正しく動き出せず、詰まった音になる。逆に圧力が少なすぎると、弦が余計に滑ってかすれた音になる。そして、うまく弾かれた弓の返しは、きれいなアタックと同じ特徴を示すといいます[2]。返しにも、同じ釣り合いが要ると考えてよさそうです。

二つを合わせると、筆者にはこう読めます。返しの瞬間には圧力を抜き、次の弓が加速するのに合わせて圧力を戻す。しかもこれを、音楽的には途切れを感じさせない短い時間の中で行う。

これが、師匠の言葉を読み直すための物差しになりました。

3. 要請は一つ、解は二つあった

弓先と弓元で、筆者は別の解を見つけました。

弓先では、返しの動きを直線の往復ではなく円にして、そのなかで一瞬だけ圧力を抜きます。円にすると、圧力を抜く瞬間が作りやすかった。なぜ円だと抜きやすいのかは、筆者には感覚としてしか言えません。ただ、これが「ボウイングは八の字だ」の意味だったのだろうとは思います。下げ弓と上げ弓で円の向きが逆になるので、往復で八の字になります。

弓元では、何もしないことが解でした。腕が向きを変えるとき、手先には動き続けようとする慣性が働きます。筆者の感覚では、腕の反転に手先が一瞬遅れ、その間だけ圧力が抜けます。身体の側で余計なコントロールをせず、慣性が作る間を使う。「指弓なんか練習するな、あれは勝手にできるものだ」は、こういうことだったのだろうと思います。弓先と弓元で解が分かれた理由は、筆者の予想では、接点と支点の距離の違いです。弓先では、手元を大きく動かしても接点での効果は小さくなるので、微妙なコントロールが効きやすい。弓元では接点が手先のすぐ下にあるので、同じ感覚ではコントロールが効かない。だから弓元では慣性に任せる方がうまくいったのだろう、と考えています。この距離の話は、次の節のてこにつながります。

弓先の解は、筆者だけのものではありませんでした。ヴィクター・セイザーというチェリスト(クリーヴランド弦楽四重奏団のチェリストだったポール・カッツが高校時代に師事した人です)が、1997年のインタビューで近いことを語っています。身体は直線ではなく弧や円で動く。弓は弦の周りを回るように動き、下げ弓と上げ弓を交互に弾くと八の字を描く。それで腕が止まらずに動き続け、返しが滑らかになる。弓の動力は主に腕ではなく身体から来る。まっすぐ弾く方が、特に速い場面では身体に負担が大きい[3]。師匠の「八の字」と同じ考え方を語る奏者が、他にもいたわけです。

ただし、弓元の解が「練習しない」でよかったのは、筆者の手の場合です。同じ問題に、別の答えが出た人もいます。カッツは2005年のインタビューで、自分の指の動きは生まれつき柔らかすぎて、返しの指の動きが過剰で締まりがなく、若い頃の師匠たちには指を使いすぎるなと言われたと語っています。それをレナード・ローズが、指の動きを抑えて整える練習を課して、右腕の使い方を作ってくれたのだと[4]。指弓が勝手にできる手もあれば、勝手にできすぎて整える必要のある手もある。身体が違えば、同じ要請に対する解が違います。

4. 張りのある音は、てこで作る

返しの話は、圧力を抜く話でした。弓全体で張りのある音を保つのは、その逆で、圧力を保ち続ける話です。図1の鳴る範囲の内側であっても、圧力が足りなければ薄い音になります。張りのある音が出る高さに、圧力を保ち続けなければなりません。

弓を、てことして見ます。弓の毛が弦に触れる接点が、力を受ける点。親指が、弓を下から支える支点。人差し指が、弓に上から力を掛ける力点です。人差し指は親指より少し弓先寄り、つまり支点と接点の間にあります。人差し指が押す力に、親指から人差し指までの距離を掛けたものを、弓を回そうとする力、モーメントと呼びます。接点に掛かる力は、このモーメントを、親指から接点までの距離で割ったものです。

弓をてことして描いた模式図。上下二段で、どちらも弓の棒を横に描き、右端の弓元に手がある。親指が棒の下から支える支点、その少し左(弓先寄り)で人差し指が上から押す力点、人差し指の上に「前腕の回転(回内)でモーメントを掛ける」と注記。弦との接点(力を受ける点)は、上段「弓元で弾く」では手のすぐ左にあり、親指から接点までの距離が短い。下段「弓先で弾く」では接点が棒の左端近くにあり、距離が長い。下段に「同じ力を接点に掛けるには、モーメントを増やす」と注記。図の上に「接点の力 = モーメント ÷ 親指から接点までの距離」、右下に「弓の重さの寄与は省略した模式図」とある。
図2 弓は三点のてこ(弓の重さは省略した模式図)。接点に掛かる力は、人差し指で作るモーメントを、親指から接点までの距離で割ったもの。弓元と弓先で距離が変わるので、モーメントを加減して接点の力を保つ。

ここで問題になるのが、弓の位置です。弓元で弾いているときは親指から接点までが近く、弓先では遠い。同じ力を接点に掛けるには、弓先に向かうにつれて、モーメントを増やしていかなければなりません。

モーメントを出すのは、指で握ることではなく、前腕を内側に回す動き(回内、プロネーション)です。前腕を内側に回すと、手の小指側が上がり、人差し指側が下がる。筆者の感覚では、このとき腕の重さが人差し指を通して弓に乗り、指で握って押すよりも力が滑らかに変わります。この回転を弓の位置に応じて加減し、接点の力を張りのある音が出る高さに保つようにしたら、弓全体で張りのある音が続くようになりました。

腕の重さと接点と弓の速さで音の密度を変える、という考え方は、カッツがグリーンハウスから学んだこととして語っているものと重なります[4]。セイザーの、動力は主に腕ではなく身体から来るという言葉も同じ方向です[3]。筆者の「腕を脱力し、体幹を動力源にする」という理解も、同じ方向の言葉です。

ただ、正直に書いておくと、ここから先は物理ではありません。接点の力の範囲は実験で測れますが、「体幹から」「脱力して」が筋肉のレベルで何を意味するかは、一次資料が薄く、流派によって言うことも違います。本稿では、物理の層は検証できること、身体の層は筆者と、ここで引いた奏者たちがそう理解していること、として書き分けています。

5. 感覚の言葉は、物理をそのまま写さない

振り返ってみると、師匠の二つの言葉は、どちらも正しかったのです。ただ、感覚の言葉でした。「八の字」は動きの軌道の話で、その軌道がなぜ返しを助けるかは言っていない。「指弓は勝手にできる」は結果の話で、何が指弓を勝手に起こすのかは言っていない。当時の筆者には、その言葉を検証する手段がなかった。言われたとおりに八の字を描いてみたとしても、何が変わればうまくいったことになるのか分からなかったでしょう。

物理の言葉に翻訳すると、言葉が検証できる仮説になります。「八の字」は「返しの瞬間に圧力を抜きやすい軌道」になり、抜けているかどうかは音で分かる。「指弓は勝手にできる」は「手先の慣性で圧力が抜ける間ができる」になり、慣性に任せたときと指で作ったときの違いを比べられる。仮説にできれば、外れたときに何が外れたかも分かります。

筆者の場合、外れた仮説は数えきれません。覚えていないほどです。それでも、当たった仮説だけは、こうして言葉にできる。練習とはそういうものだと、いまは思っています。弾いた回数ではなく、立てた仮説と、それを確かめた回数で進む。

おわりに:根拠はあるが、形は一つではない

右手の技術には、物理の要請があります。返しでは圧力を抜いて加速に合わせて戻す。弓全体では接点の力を保つ。これは誰の身体でも同じです。

けれども、その要請を身体がどう満たすかは一つに決まりません。筆者は弓元で慣性に任せ、カッツは練習で指の動きを抑えて整えた。どちらも正しい。奏法に根拠があることと、正しい形が一つに決まることは、別の話です。

そして、師匠の言葉のような感覚の言葉は、物理をそのまま写してはいません。写していないからこそ、物理の言葉に翻訳し直す作業に意味があります。翻訳できた言葉は仮説になり、仮説は試せる。試して当たったとき、何年も前の師匠の言葉が、ようやく自分のものになります。

参考資料

  1. Erwin Schoonderwaldt, Knut Guettler, Anders Askenfelt, “Schelleng in retrospect – a systematic study of bow force limits for bowed violin strings,” Proc. ISMA 2007, Barcelona. https://knutsacoustics.com/files/schelleng-in-retrospect.pdf ― シェレングの図(J. C. Schelleng, “The bowed string and the player,” J. Acoust. Soc. Am. 53, 1973)の予測を、弓の駆動機械とヴァイオリンの弦で検証した研究。圧力の上限は弓の速さにほぼ比例し、下限は遅い速度域でほぼ一定だった。
  2. Knut Guettler, “Looking at starting transients and tone coloring of the bowed string,” Journal of ITC Sangeet Research Academy 18, 2004. https://knutsacoustics.com/files/starting-transients-guettler.pdf ― 音の出だしにおける圧力と加速の釣り合い。うまく弾かれた弓の返しは、きれいなアタックと同じ特徴を示すという記述を含む。
  3. Tim Janof, “Conversation with Victor Sazer (1997),” CelloBello. https://cellobello.org/cello-blog/interviews/conversation-with-victor-sazer-1997 ― 身体は弧や円で動くこと、八の字のボウイング、動力は主に身体から来ることについての本人の証言。セイザーの著書 New Directions in Cello Playing(改訂増補版の電子版がCelloBelloで配布されている)は、痛みへの対処と奏法を身体の使い方から扱った本。
  4. Tim Janof, “Conversation with Paul Katz (October, 2005),” CelloBello. https://cellobello.org/cello-blog/interviews/conversation-with-paul-katz-october-2005/ ― セイザーに師事したこと、レナード・ローズが指の動きを整える練習で右腕の使い方を作ってくれたこと、グリーンハウスから学んだ腕の重さ・接点・弓の速さによる音の密度の話。

本稿は筆者のチェロの練習経験をもとに、弦楽器音響の研究とプロ奏者の証言を参照して整理した考察です。身体の使い方に関する記述は筆者の理解であり、奏者の身体や流派によって適切な方法は異なります。痛みや違和感がある場合は、指導者や専門家に相談してください。